だから世界は終わらない
ちいさなちいさな。
でもとても大きな大きな物語。
ふたりでつないだ手の輪のなかに入るほどの、ちいさくて大きな物語。
本当なのかもしれない。
もしかしたら嘘なのかもしれない。
でもとても大切な物語。
ふたりの、宝物。
1
その日、クラスでは朝から奇妙ないたずらが連続していて、それがもしひとつふたつだけ起きていたのなら薄気味悪かったかもしれないけど、数えてすでに十を超えるとなればもはやちょっとしたイベントじみてきてしまって、クラスメートたちは、むしろ退屈な毎日に降ってわいた幸いとばかりに誰が犯人なのだろうとはしゃぎ、目を輝かせていた。
わたしは、どうでもいいって思っていた。
いたずらが何度も繰り返されるのはやはり落ち着かないものではあるのだけど、そこに悪意のようなものは感じられなかったからだ。特定の誰かを狙ったものではなかったし、なにかしら深刻な被害が出たわけでもない。クラスメートたちがはしゃいでいられるのもそのせいだ。
教室の壁時計の針が狂っていたり、教卓が教室の後ろに運ばれていたり、週番が運ぶはずの提出課題がいつのまにか先生に届けられていたり、体育の授業のあと、クラス全員のうわばきがかかとではなくつまさきを外に向けるかたちに入れ替えられていたり。
大方、お調子者の誰かがふざけ半分でやっているのだろうと思っていた。
そもそもわたしは、自分に火の粉がふりかかりさえしなければ学校で何が起ころうと関係ないって思っている。退屈な毎日に一石を投じる、なんて考えているのかもしれないけど、わたしは巻き込まないで欲しい。巻き込まれるつもりもない。
だからわたしはクラスメートたちの浮き足立った空気に感染することもなく、普段と変わらずぼんやりと窓の外を眺めながら午前の授業をすごしたのだけれども、わたしもそのときにはすでにその騒動に巻き込まれていたことに、昼休み、屋上でひとり、購買のパンをかじっているときに知ることになった。
巻き込まれるどころか、ほぼ中心にいた。
「あの……来てくれたんですね」
いつものように屋上の給水設備室のうえ、制服のスカートをぱたぱたとはためかせながら寝転がり、食べかけのパンを持ったまま文庫本に目をやっていると、ふいにそう声をかけられた。
最初、わたしにかけられた声だとは思わなかった。
屋上は本来立ち入り禁止の場所だから、わたし以外の誰かがこんなところに来るなんて考えもしなかったし、それに、貴重な息抜きの昼休みにわたしのようなひねくれ者にわざわざ声をかけてくるような生徒にはただのひとりも心当たりがなかったからだ。
戸惑いながらも身体を起こして見下ろすと、わたしと同じ制服姿の女の子が、まぶしそうに手をかざして、こちらを見上げていた。
ほそくやわらかそうな髪を短めに切りそろえた、華奢な身体つきの子。小作りな綺麗な顔立ちをしていて、陽光の下では少し痛々しいくらいに肌が白い。
見覚えがある。同じクラスの子だ。
ええと……。
「山内……さん?」
わたしが名前をくちにすると、女の子は、ぱあっと花開くような笑みを浮かべる。
「わたしの名前、憶えていてくれたんですね」
あたりまえだよ、と言えないところがうしろめたかった。実際、わたしはクラスメートの名前、半分も憶えていないと思う。友達なんか作るつもりはなかったから、はじめから憶えようとしなかった。名前なんてわからなくても、適当に笑顔を浮かべてうなづくことさえできれば、学校生活を送っていくぶんに支障はない。山内さんの名前はたまたま憶えていたけど、彼女にしたって下の名前は出てこない。
ただ、いらぬ反感をかってクラスで孤立するのもわずらわしいので、こういうとき――ほとんどしゃべったことのないクラスメートと一対一になったときなどは、困ってしまう。山内さん、嫌味で言ったわけではないみたいだけど、どうやらわたしがクラスメートの名前、あまり憶えていないのを見抜いているみたいだし。
わたしはあいまいに笑ってごまかして、訊く。
「えっと、来てくれた、ってどういうこと?」
山内さんはそう言った。しかし、わたしは彼女となんの約束もしていない。誰かと会う約束なんて、ここ何年もしたことがない。
「え? あの、メモを見てくれたんじゃないんですか?」
山内さんが驚いてわたしの顔を見る。
その視線がわたしのスカートのポケットにちらと向いたのでさぐってみると、二つ折りの紙片が出てきた。さらさらと手触りの良い桜色のメモ用紙。でも座った拍子にだろうか皺がよってしまっていて、いつどこでこの紙片がポケットに入ったのか気になりもしたけど、それよりも、どうやらこの紙切れの送り主らしい山内さんを前に、ちょっとバツが悪い。
わたしは、しかし皺などには気がつかなかったそぶりで、ひらいてみる。
この世界を救う手伝いをしてくださいませんか? 昼休みに屋上で会ってください
……この世界を救う?
思わず眉をひそめてしまう。
ひらいた紙片をひらかなかったことにするにはどうすればいいだろうか。
世界を救う前に、いまこの瞬間のわたしを救ってもらいたい。
「あの。匿名で呼び出したりしてごめんなさい」
彼女はわたしが眉をひそめた原因がそこにあると思ったのか、そう言ってぺこりと頭を下げる。
「そういうことではないんだけど……」
署名の有無なんて、この際どうでもいいことだ。
「本当にごめんなさい。わたし、江藤さん以外の人の手に渡ったときにはいたずらって思ってもらえるようにしたかったんです。もしべつのひとがここにいたら、わたしもメモをもらったの、って言おうと思っていて」
たしかに、くだらないいたずらが連続している今日ならその言い訳は有りだと思うけど、それもどうでもいい。
弁解する山内さんは申し訳なさそうだけれど真剣で、それでメモの内容が本気なんだってわかった。冗談でも、わたしをからかっているのでもないと思った。そう思ったので、ひいた。
ひいて、この場をどう切り抜けたらいいのか、なにを言ったらいいのか、言葉につまっていると、山内さんがおずおずとこちらを見上げて訊いてくる。
「あの、そちらに登ってもいいですか?」
「あ……うん。どうぞ」
世界を救う、なんて言い出す子にとなりに来られるのは、正直、嫌だったけど、とっさにはことわる口実をみつけられず、うなづいてしまう。
「うわぁ。ここから見る景色、素敵なんですね」
風を受けてひろがりそうになるスカートを気にしつつ登って来た山内さんは、高所が苦手なのか、おそるおそるわたしの横に腰をおろして、景色を見晴るかす。心持ち腰をずらして離れるわたし。
この学校は山すその高台にあって、屋上からは海沿いにひろがる町並みを一望することができる。町並みの向こうにはもちろん海が見渡せる。ここからの眺望は、わたしも好きだ。陽を返しまばゆい海も、澄んだ空の下で蒼々と深み広がる海も、澱んだ空の下ではにび色に沈む海の色もみんな好きだ。くるくるとわたしのかわりに表情を変えてくれているようで、どこかほっとする。それに、おだやかだったり、元気だったり、やさしかったり、でもときどきは猛々しくて恐ろしかったり、海はそこにあるだけでスペクタクルだ。いくら眺めても、飽きることがない。でもいまはそれどころじゃない。こういうわずらわしいこと、わたしは好きじゃない。
「あのさ、それで、これ、なに? わたし、宗教とかそういう話、好きじゃないんだけど。それにわたしがメモに気づいたのはいまだよ。読んでいたら、わたしたぶんここに来なかった」
気を取り直したわたしは、まずはっきりと言った。クラスに馴染んでいないからといって持ちかける相手に選ばれたのなら、大きなお世話だ。
景色に見惚れていた山内さんははっとなってわたしを振り返り、えらくあわてた様子で弁解する。
「あ、あの、そういうのじゃないんです。宗教とかじゃないんです。わたし自身、言ってて、わたしってあやしいな、って思ってます。でも本当なんです。本当に、世界が危ないんです。ほうっておいたら明後日の五時間目に消滅してしまうんです。でもわたしひとりではどうすればいいのかわからなくて。だから江藤さんに手伝ってもらえたらって。あの、本当なんです。本当に世界が消滅してしまうんです。信じてくださいっ」
最後は胸の前できゅっとこぶしを握ってわたしを見つめる。山内さんのほうが背が低いから、見上げるようなかっこうになっている。
「信じてください、って言われても……」
山内さんのひたむきな視線から目をそらす。
無理な話だ、そんなの。ほとんど話したことのないクラスメートから突然妄想じみた話をもちかけられて、よしわかった一緒に世界を救おう、なんてうなづけるはずがない。マンガの世界の住人じゃあるまいし。明後日の五時間目? 危ないのはキミの頭のほうでしょ、なんてことまで口走りそうになってしまう。はっきり言って、気味が悪い。
「山内さんには悪いんだけど」
「あの。話だけでも聞いてもらえないでしょうか? そうすれば……」
わたしが断りかけると、山内さんがすがるような目で食い下がってくる。
「でも、話を聞いてもわたしはなにもできないよ。なにかをする気もない」
もうここまで、とばかりに強い口調でわたしは言う。宗教にも妄想にもわたしはつきあうつもりがない。はじめからそのつもりなのだから、話なんて聞かないほうがいい。
「そうですか……」
わたしの拒絶の態度に、山内さんはしょんぼりとうなだれてしまう。
その姿は心底がっかりしているようで、なんだか罪悪感を感じてしまう。しかしすぐに、なんでわたしが罪悪感を感じなければならないのよ、気を悪くしてるのはむしろこっちじゃない、といらだちに変わってくる。
居心地の悪い空気が流れるが、しかし、ほどなく昼休み終了の鐘が鳴る。
「鐘、鳴ったよ」
ほっとして、渡りに船と立ち上がる。
「は、はい……」
制服を軽くはたいて皺をのばすと、山内さんを待たずにさっさと屋上に降り立つ。
「わたし、寄るところがあるから、先行くね」
我ながら言い訳がましいと思いながらもそう言って、出入り口に向かって足早に歩き始める。本当は寄るところなんてない。友達のひとりもいないわたしに、そんな場所があるわけない。一緒に教室にもどるはめになったら気詰まりなので、そうなる前にこの場を立ち去りたかっただけだ。
「江藤さん。あの……」
しかし、ほんの数歩も行かぬうちに、山内さんの声が追ってきた。風にまぎれて消えてしまいそうな、頼りなげな声。
一瞬、聞こえないふりをして行ってしまおうと思ったけどできなくて、でもふりむかないで、訊く。
「なに?」
「あの。青嵐って……」
「え、なに?」
「さくら青嵐の候って、憶えておいてください」
「……憶えておくだけでいいの?」
「はい」
「うん。わかった」
もちろん、わからない。そんな予言者めいた押しつけ、わかりたくもない。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
でもとりあえずうなづいて、校舎のなかに逃げ込んだ。
山内さんは五時間目の授業がはじまる寸前に教室に戻ってきた。その一瞬、彼女の視線がわたしに向けられたように思ったけど、わたしは気づかないふりをした。
現国の授業がはじまり、わたしはぼうっと窓の外を眺める。
窓のすぐ外には楡の大樹が立っていて、枝葉の隙間から校庭が見える。校庭には誰もいない。日射病や脱水症を避けるため、夏の体育授業は屋内中心になるからだ。ただ、かすかにひらいた窓からの風に乗って、プールのほうから歓声や水音が聞こえてくる。
うちのクラスの水泳は、明後日の四時間目だ。水泳は好きでも嫌いでもないけど、空調のない暑い教室で、遠く涼しげな水音を聴いていると、少し待ち遠しい気分になる。
水遊びだけでもいい。素足をゆれる水につけるだけでも、身体にこもった暑気を払えそうだ。金色の昼下がり、こどもたちと優雅に舟遊びをしながら物語をくちずさんだのはだれだっけ。こんな暑い日に、水面のうえで涼やかな風をほおに受けていられるのなら、わたしだって物語のひとつやふたつ、語れそうだ。
プールか。いいなぁ。
……そういえば、世界が消滅する、って山内さんが言っていたのも明後日だったっけ。たしか水泳の授業のあと、昼休みをはさんだ五時間目。
信じてくれと訴えていた山内さんの顔が脳裏によみがえり、わたしは、わたしの頭のなかにある、わずかばかりの山内さんの印象をかき集めてみる。
わたしに組み立てることのできる山内さんのイメージは、クラスでは目立つほうではない、おとなしくて静かな子、というものだ。ただ、人前に出るのは苦手なようだけど陰気といった感じはなくて、一歩引いた場所で静かにほほえんでいるといった印象。日陰に咲く白い花ってイメージ。
名字だけとはいえ山内さんの名前を憶えていたのは、図書室でたまに顔を合わせていたからだ。言葉を交わすわけではなかったけど、すれちがえば会釈ぐらいはした。
ふいに、わたしは山内さんをけっこう気に入っていたのかもしれない、と思った。たったこれだけのことではあるけど、クラスメートについてここまでイメージできることは、わたしにはめったにない。クラスメートなんて、ただそこにあるだけの風景の一部に過ぎないから。わたしにしては珍しいこともあるものだ。
でも、もしかすると気に入っていたのかもしれないその白い花は、根腐れしていた。
やっぱり、と心の深くでつぶやく声がする。
わたしが勝手にイメージを作っていたわけだから、腐っていた、なんて言い方をするのは山内さんに対して失礼なのだろうけど、妄想やらあやしげな宗教やらに取り付かれている人間にろくなものはいないと思う。群れ集まるだけでなんでもできると思い込んでいる連中なんて。ひとを巻き込むな。
ともあれ、わたしにはもう関係ないことだ。はっきりと断ったのだから。別れ際の山内さんの様子からして、こちらから話しかけなければ、しつこく誘いかけてくることはないだろう。
やがて、窓から差し込むあたたかな午後の日差しと耳に心地良い涼しげな水音のBGMに、うつらうつらとしてくる。
「次、山内加奈」
生徒の名前は必ずフルネームで呼び捨てる国語教師の指名する声が聞こえる。
「はい」
そうか、山内さん、下の名前は加奈っていうのか。
山内さんが教科書を読み始める。
綺麗な声だな。ほそく小さいけれども、鈴を転がすような、ってたとえかたがぴったりくるような耳触りのいい声……。
加奈っていう名前も、悪くない。うん。わたしの好きな響きだ……。
ぼんやりとそんなことを考えながら、意識がまどろんでいく……。
「次、江藤千夏」
名前を呼ばれた瞬間にはすでに、しまった、と思っていた。油断した。
顔をあげると、担当科目は体育なんじゃないかと思うような巨漢の国語教師が、嫌ったらしくにやにや笑いながらわたしを見下ろしていた。
さきほど指名されていた山内さんは教室のちょうど真ん中あたりの席。わたしは窓際の席だから、席順からいえば今日は指名には当たらないはずである。本来なら「次」がわたしになるわけがない。
しかしこいつはわたしのことが気に入らないので、こうやってあからさまな嫌がらせを頻繁にしてくる。わたしだってこいつは嫌いだ。
「江藤千夏っ。返事はどうしたっ。立てっ」
頭ごなしの怒鳴りつけ。大声で怒鳴りつけることがどれほどひとを萎縮させるか、声や言葉がどれほど物理的な暴力になりえるか、こいつの授業を受けているとよくわかる。
「……はい」
「まさか寝ていたんじゃないよな」
わたしがしかたなく返事をし、立ち上がると、間髪いれずに嫌味を投げつけてくる。
うとうとしてはいたけど、眠り込んではいない。ただ、そもそも授業から気がそれていたため、ページはわからない。
「読め」
「……」
国語教師――こんなやつに名前はいらない――は、勝ち誇った笑みを浮かべている。わたしがページを見失っていることを確信しているのだ。
周囲のクラスメートはぴりぴりとした空気におびえてしまって、身動きひとつしない。もしわたしにアドバイスをしようものなら、自分までとばっちりを受けることがわかっているからだ。
でも、クラスメートなんてそんなものだ。たまたま同じ車両に少しのあいだ押し込まれた見知らぬ乗客同士、みたいなもの。きっかけがあれば話すこともあるけど、何か起これば自分のことしか考えない。交通事故でも起ころうものなら、誰かを犠牲にして我先にと逃げ出す。そもそも、クラスになじんでいるともいえないわたしに救いの手をさしのべる義理を感じている子もいないだろう。
わたしは心のなかでひとつため息をついて、謝罪の言葉をくちにしようとする。国語教師はここぞとばかりにわたしをつるしあげ、蔑みとあざけりの言葉を吐きつけてくるだろう。
――と、そのとき、昼休みに山内さんがくちにした、不可解な言葉を思い出した。
青嵐の候って、憶えておいてください
まさかとは思うけど。
でもそういえば、そんな調子ではじまる一文があったような……。
山内さんのほうを見るけど、わたしの席からは背中しか見えない。人一倍緊張しているように見えないこともないけど、そんなのはわたしの主観だ。だいたいいま、この教室にいる生徒のなかで緊張していない者がいるとすれば、それはたぶん当事者であるわたしだけだろう。
どうする?
いや、どうせ、ここで読むことが出来ないなら、結果は同じなのだ。
わたしは半ば以上自暴自棄になってページをめくる。……うん、やっぱりある。わたしは短く息を吸い、思いきって読み始める。
「青嵐の候。木漏れ日射す深緑を歩き蒼穹に出会う。地の果てに辿り着きしことを知り――」
やがて、
「もういい。そこまで」
国語教師の悔しげな声が聞こえる。
わたしは黙ってイスに座りなおす。
普段なら、ざまあみろ、といった気分になるところだけど、国語教師のことなんていまはどうでもいい心持ちだった。
自分から試したこととはいえ、頭のなかがパニックを起こしていた。
これってどういうこと?
順番でもないのに、どうして山内さんはわたしが当てられるってわかったの?
しかも、読まされる箇所まで。
世界を救うとか何とか言っていたけど……山内さんって何者?
2
妖精なんて信じない
そう言うたびに、どこかの妖精が地面に落ちて死ぬ。
『ピーターパン』に出てくる一節だ。
いじわるな男の子がわざと「妖精なんているわけないだろっ」と言うたびに、わたしは泣いた。
不思議なことを信じる才能のあったころは、世界はわたしのすぐとなりにあった。手をつないでいた。
いまのわたしはせせら笑う。
世界は悪意に満ちている。世界は遠くにあるくせに、悪意だけは忘れずに配達してくるから、油断ができない。
気をゆるめると、
手を食いちぎられる。
足を食いちぎられる。
内臓をひきちぎられる。
頭からばりばりと、噛み砕かれる。
夢なんて見ない。
冒険は失敗する。
天気予報が晴れをつげても、絶対に雨が降らないとは限らない。そうすれば、みじめにずぶぬれになる。おおぜいが、世界中が、わたしを指さして笑う。みっともなく鼻水を出しながら泣いているわたしを大声で嘲る。
わたしは、この退屈だけれどもそれなりに満ち足りている平穏な日常が崩れることを、拒絶する。
五時間目が終了すると、手早く帰宅準備を整えて教室を出た。まだ授業が残っているのにカバンを持って教室を出て行くわたしに、クラスメートの何人かが怪訝そうな目を向けたけど、無視した。気分が悪くてたまらない。こんな場所には一分一秒も居たくない。
階段を下り、昇降口に向かって足早に歩いていると、小走りに追いかけてくる足音が聞こえた。
「あの」
背中越しに小さな声。鈴を転がすような綺麗な声だと思ったけど、いまは虫唾が走る。
さっきは少しパニックになったけれども、冷静になればすぐにわかることだった。あの国語教師と山内さんが共謀しなければ、あんな芸当ができるわけがない。真に受けるほうがどうかしているって話だ。
立ち止まると、振り返って切りつける。
「最低」
「え」
「あいつと組んでわたしをからかったんでしょ」
「ち、ちが」
「じゃあなに? 不思議な力とでも思わせてあやしい宗教に勧誘しようと思った? ばかにしないでよ」
わたしの剣幕によほどショックを受けたらしい。山内さんの顔がいまにも泣き出しそうにゆがむ。
――と、そんなふうに見える。
ふん。だまされるもんか。
「そんな演技、通用しないから」
それだけ言うと、わたしは山内さんに背を向けてふたたび足早に昇降口に向かう。
背後で、ぺたん、と山内さんが座り込んでしまった気配がしたけれども、ばっかじゃないのいいかげんにしろふざけんな、だ。
下駄箱にうわばきを乱暴につっこんで、上がりかまちに叩きつけるように靴を落とす。
なにごともないように、めだたないように、静かに、穏やかに過ごそうとしているのに、どうしてわたしにかまうんだ。
学校とか、クラスメートとか、うんざりする。
心配するから、親の手前、学校には通っている。
でもそれだけだ。三年間当たり障りなく通えさえすればほかにはなにもいらない。
勉強なんてどこでだって出来るし、友達なんていらないし、青春時代の思い出なんてものも必要ない。そんな嘘っぱちと勘違いの産物。
わたしはただほっといてほしいのだ。誰の邪魔もしないから、わたしにも関わらないでほしいのだ。
わざわざ学区から離れたこの学校に入学してから、わたしはうまくやってきていると思う。誰とも親しくならず、それでいてお高くとまっていると目立ったりすることもないように、ちょっと変わり者、って感じのポジションで、地味に、無難に。
それなのに、ときおり、どうしてもこうやってわずらわしいことが起きてしまう。今日のことなんてその極めつけだ。
あの教師が、おとなしくて御しやすそうと踏んで山内さんを取り込んだのか、それともあやしい宗教の会員を増やそうとでもしていた山内さん主導の画策なのか、それはわからない。
山内さんは、そういえばわたしが気にかけやすいタイプの子だ。
ひかえめだけれども、本当はまっすぐで芯の強い、心根の綺麗な子。わたしは無意識に、山内さんをそんな子に見ていたのかもしれない。
きっと、そこに隙があったのだ。
山内さんはわたし自身さえもが気づいていなかったその好意を逆手に取ろうとしたのかもしれないし、もしかすると、あの教師のほうが、図書室かどこかであの子と会釈を交わすわたしを見て、利用することを思いついたのかもしれない。
どちらにせよ、つけいる隙を見せたわたしのミスだ。わたしが世界の拒絶を徹底していないから、足元をすくわれそうになるのだ。
まったく、腹がたつ。あの教師にも山内さんにも、すぐに気をゆるめてつけこませるふがいない自分にも。いらいらする。
いらいら、いらいらして、足がうまく靴に入らない。最近買った新しい革靴なので、まだ硬くて馴染んでいない。頭にきて、わたしはかかとを踏んづける。固い感触がめりめりっと形を崩すのを感じた瞬間、せっかくの新しい靴にやつあたりをしてだいなしにしたことを後悔したけど、かまうもんか、とあごをつんと上げて、人気のない昇降口を出た。
正門に向かって足を進めたところで、ふと、返却期限が今日までの本が鞄に入っているのを思い出した。靴を踏み潰したいきおいで、またも、かまうもんか、と一瞬思ったけれども、思い直して図書館に足を向けた。明日になって超過の言い訳をするのは、かえってわずらわしい。いたずらに、ひとにあやまったり請うたりするのは、嫌いだ。たとえ一言、二言でも。もう絶対に嫌だ。
ついでに、いま読みかけている児童文学も返してしまおう。翻訳もので、村の長老の予言に従って世界を救う旅に出た魔法使いの少年の話だ。おもしろくなりかけてきたところだったのだけど、とてもじゃないけど読む気がしなくなってしまった。そのことだけでも頭にくる。
この学校には、校舎とは独立した三階階建ての図書館がある。まったくの分不相応で、生徒たちは、試験前に閲覧室をエアコンの効いた勉強部屋がわりに利用するくらいのものだけれども。
まだ休み時間が終わっていないので、自主早退をとがめられる心配もなく、都合がいい。わたしは入り口近くの茂みに鞄を隠し、返却する図書だけを持って図書館に入る。
蔦のからまった古風な擬洋風建築の図書館は、しかし扉を一歩入れば、クーラーは効いているし、図書の無断持ち出しを防ぐためのセキュリティーゲートもちゃんと設置してある。
セキュリティゲートのあいだを抜けて、すぐのところに貸し出しカウンターがある。目録閲覧用の資料室と、それから試験期間以外はほとんどひとのいることのない閲覧室はその奥にある。わたしはまっすぐにカウンターへ向かい、司書さんに返却手続きを行ってもらうと、すぐに出口へと取って返す。
授業の合間の一〇分間休憩ということもあって、館内に生徒の姿はない。図書委員の生徒も、一〇分休みは係を担当しない。もっとも、これが昼休みでも放課後でも、生徒で盛況だったことなんてわたしの知るかぎりでは一度も無いのだけど。図書館を頻繁に利用するのは、わたしのようなはぐれ者や、あるいは山内さんのような本当の読書好きだけだ。
と、そこまで考えて、あれ? と違和感を覚えた。
わたしが山内さんのことを憶えていたのは、この図書館でよく会うから、だよなあ?
放課後の夕日差し込む書架のあいだで、あるいは休み時間にあわただしく、すれちがって会釈を交わした憶えがある。
でも。
わたしは、カウンターの奥の目録資料室を振り返りながら思う。
この図書館って、閉架式、なんだよね。
古い図書館で貴重本が多いためか、本を借りるときは資料室の目録で検索して注文書に記入し、司書さんに書庫から持ってきてもらうという貸し出しシステムなので、書架のあいだを歩いて自由に本を選ぶことはできないし、もちろん生徒同士ですれちがうことなんかまずない。
それなのに、あの子と小さな笑顔を交換した憶えは、たしかにある。ありえないのに、ある。
なんだろ、この妙な記憶の齟齬。かたちは合っているように見えるのに、何故かうまくはまり込まないジグソーパズルのピースのような。
一度意識すると、ひどく気にかかる。胸の奥がじりじりするようなもどかしさがある。
記憶なんてあいまいなものだから、気にすることはないと思うのだけど、なんだかすっきりしない。
……いや。
止め止め。
考えるのは止め。
いまさらあんな子のことを考えてどうするんだ。
3
それきり、山内さんのことは忘れるつもりだった。
しばらく気詰まりだろうけど、もともと数えるほどしか口をきいたことのないクラスメートだ。おたがい、何もなかったような顔をしていれば、ほんの数ヶ月後には、そんなこともあった、程度に記憶はうすまって、ただのどうでもいいクラスメート同士にきっともどれる。
ところが、彼女はその夜、自宅にまで押しかけてきた。
夕食後、友達のいないひねくれものではあってもそれなりに年頃の女の子をしているわたしが、ベッドに行儀悪く寝転がり、そこそこ真剣にファッション雑誌にチェックを入れていると、階下で小鳥のさえずりが聞こえた。うちのインターフォンの呼鈴だ。
大方、町内会の回覧板かおかあさんを訪ねてきたご近所さんだろうと気にもとめずにいると、は〜い、なんて応答に出たおかあさんが、しばらくして思わず正気を疑ってしまうくらいのはしゃぎ声でわたしを呼ぶので、ぎょっとして階下へ下りると、ちーちゃん、お友達! お友達だよ! なんてありえないことを言う。
なにそれ? とわたしは眉をひそめたけど、でもこのときすでに、誰がわたしを訪ねてきたのか、直感していた。
良し悪しに関わらず、「関係」なんて呼べるものが成立しているのは、ここ最近では彼女一人だったからだ。
案の定、玄関先に立っていたのは身体を恐縮そうに縮こめた山内さんで、わたしに気がつくと、安堵と不安の入り混じったような、いまにも泣き出しそうな強張った笑みを浮かべる。
そのいかにもひかえめって感じの白々しい表情を見たとたん、頭に血がのぼった。
どうしてわたしをほっといてくれないんだ。
わたしはいまとてもしあわせなんだ。おとうさんおかあさんとの三人の生活はおだやかで心休まるものだし、べつに友達がいないからといって家に閉じこもっているわけではなく、ショッピングにも映画にもでかけるし、読みたい本はそれこそ生きているうちには読みきれないと絶望するほどにたくさんあるし、ひとなみに、憧れている映画俳優だっている。
友達がいなければ、学校で楽しくやっていなければ、そのひとはしあわせじゃないって言いたいわけ? わざわざこんなところにまでおしかけてきて! そんないかにも学校道徳めいた、弱者を踏みつけるような押しつけがましい考えなんか、迷惑以外のなにものでもない! 価値観なんて、ひとそれぞれなんだから! ひとによってぜんぜんちがうんだからっ!
ほんと、冗談じゃない!
わたしと山内さんは同時にくちをひらきかける。山内さんは、きっとここまで押しかけてきた弁解の言葉を。わたしはとがめる言葉を。
しかし、わたしたちよりもさきにくちをひらいたのは、おかあさんだった。
「まあまあまあまあどうぞどうぞこんなところではなんですからおあがりになって? ほんとに、よくいらしてくださって。そうだ、あのね、お昼にケーキを焼いたの。ちーちゃんが大好きなパンプディング。ちーちゃんはね、おいしいおいしいって言ってくれるのだけど、おくちにあうかしら。そうそう、ちょうどおとなりさんからイギリスみやげの紅茶をいただいたの。がんばっておいしくいれるから、ぜひめしあがっていってね。でもほんとにまあまあ、よくいらっしゃいました。ささ、どうぞどうぞ、おあがりになってくださいな」
天然おっとり節全開でそうまくしたてながら山内さんの手をひいて部屋へ通そうとするので、
「ちょっとおかあさん! 勝手に話を進めないでよ!」
とかろうじて引き止める。訪ねてこられただけでも不快なのに、家に上げるなんて冗談じゃない。ここはわたしの居場所≠ネんだから。居てもいい場所≠ネんだから。わたしのしあわせを壊すものは、絶対に侵入させないんだから!
「でもね、ちーちゃん。こんな場所で立ち話なんて失礼でしょう? それにお友達に風邪でもひかせちゃったらどうするの?」
ひかないひかない。いまは夏だ。それに立ち話をしているのはおかあさん、あなたでしょ!
でも、おかあさんがはしゃいでいる理由も、実はよくわかっている。
友達と出かけることすらまれなのに、ましてや娘を友達が訪ねてくるなんてこと、ここ数年なかったことだから、舞い上がっているのだ。
しかし、娘の心配をする親心には感謝するけど、勘違いもはなはだしい。
山内さんは、友達なんかではない。それどころか、あやしい宗教の勧誘員かもしれないのだ。
……でも、そうと知ったら、おかあさん、がっかりするだろうな。
日ごろただでさえひねくれ娘の将来を気にかけてやまないというのに……。
ああっ、もう! しかたない!
わたしはおかあさんの横を駆け抜けると、土間に飛び降りるようにしてサンダルをひっかけ、山内さんの腕をひっぱる。
「わたしちょっと出てくる。大通り公園。行こ、山内さん」
「あ、は、はい」
「やだ、ちーちゃん。ちょっと待って。おかあさんだけ仲間はずれなの?」
「はじめから部外者でしょ」
「む。ちーちゃんたらひどいこと言って!」
おっとりと、それでいて本気で不満そうなお母さんの声を無視し、夜分おじゃまいたしました、なんてご丁寧にも頭を下げている山内さんを押し出すようにして、玄関を出る。
「かなちゃーん。ぜひまたいらしてねー」
玄関先まで出てきて手をふるおかあさんに、ぺこりと山内さんがもう一度頭を下げる。
なにが、かなちゃーん、よ。いきなりなじむのやめてよね、もう。
「ほら、行くよ」
「は、はい!」
おかあさんには悪いけど、山内さんはもう来ない。来させない。
「ここでいいよね。わたし、お財布持ってきてないし」
「は、はい。……あ、いえ! この公園はダメです!」
山内さんが意外なほどはっきりと拒絶する。
わたしたちが入ろうとしているのは、自宅から五分ほど歩いたところ、国道沿いにある公園だ。駅からも近く、人通りもそこそこあるので、夜でも安心して使える。
しかしそれだけに、たしかに込み入った話をするには向かない。国道は車がひっきりなしに走っているので、自分の声さえ聞き取りにくい。
選り好みされて少しカチンときたのだけど、納得は出来たので、
「駅から少し離れちゃうけど、かまわない?」
「は、はい。ここ以外なら……」
と確認をとって、そこからさらに一〇分ほどの道のりを歩き出す。
わたしは山内さんに一言も話しかけなかった。山内さんは何度か声をかけようとしてはためらっていたようだけど、気を使ってこちらからうながしたりもしなかった。
わたしは山内さんに頭にきているけれども、同時に彼女のことが、怖かった。
自宅をつきとめて訪ねてくるほどわたしに執着する山内さんが、不気味で怖かった。
なにか得体の知れないものと夜道を歩いているようで、生理的な恐怖があった。
――少しでも妙なそぶりを見せたら容赦しないんだから。
心のなかでそう強がってみる。
……って、わたし、腕力には全然自信ないじゃん。すぐに心のなかでため息が出る。取っ組み合いのケンカなんて、生まれてこのかた、一度としてやったことないし……。
「あ、あの……こ、こんなふうに人気のない道を歩いていると、時間が止まっているみたいですね……?」
そんなわたしの緊張をみてとったのか、ただ気まずい空気に耐えられなかったのか、山内さんがとつぜん、そんなことを言う。
「……」
なに言ってるんだこいつ、という目でわたしがちらっとふりかえると、山内さんはしどろもどろになって続ける。
「そ、その、えと……エ、エンデの『モモ』みたいだなって、時間泥棒に時間を盗まれちゃったときみたいだなって、思って、えと、その……」
「……」
エンデの『モモ』って聞いて、ああそういえば、と一瞬うなづきそうになったけど、わたしははっと我に返って、沈黙を守り通した。
なに、友達同士みたいに言葉を交わしかけてるんだ。
だいたい……。
わたしは山内さんに、さらなる警戒心を持った。
だいたいこの子、どうしてわたしが児童文学好きなのを知っているのよ……?
図書館で借りたところを、つぶさにチェックされていた? それとも書店で購入しているところを、ストーカーまがいに目撃されていた?
得体の知れない相手。
なにを考えてるんだろう。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
国道沿いの公園よりも一回り小さい児童公園に、わたしたちは落ち着いた。住宅街にある公園だけれども、まだ深夜ってわけではないし、小声で話している分にはとがめられることもあるまい。
「それで? 今度はなにをわたしに信じこませたいの?」
ベンチに腰を下ろすと、さっそく切り出した。
「あの、本当に宗教とか、そういうことではないんです」
第一声からとげとげしいわたしの声に、山内さんはおどおどしながら答える。
山内さんは逡巡したあと、けっきょくベンチには座らずに、わたしの前に立っている。
「……とにかく座らない?」
これじゃあまるでわたしが、深夜に気弱な同級生を呼び出したいじめっこみたいじゃないか。
「あ、はい。ごめんなさい……」
そこはあやまる必要ないって。わたしってばますますいじめっこ担当だ。追いつめられているのは、むしろわたしのほうのはずなのに。
山内さんはびくびくおずおずといった様子で隣に一人分と、あと半人分くらいあけてベンチに座る。適度に離れたところに座ったことにほっとすると、わたしは話を続ける。
「じゃあ、なにしに来たの」
「あの、不愉快な思いをさせてしまったことをあやまりたくて……」
「あいつと、あの教師と組んでわたしをからかったこと?」
「い、いえ! それは誤解です!」
山内さんは必死に否定してみせるけど、だまされない。わたしは表情をつとめて冷たく保ち、そっけなく聞こえるように言う。
「嘘言わないで。だったらどうしてわかったのよ? わたし、今日は当たる順番じゃなかったんだよ? 読む場所まで当てるなんて、打ち合わせてなかったら無理でしょ。それとも予知能力があるとか、そういうことが言いたいわけ?」
「よ、予知能力ではないです。わたし、超能力があるなんて言わないです。でも、その、わたしは一度見ているから……」
「見ている?」
またこの子、変なことを言い出した。
露骨に眉をひそめるわたしに、山内さんはますます臆しながらも続ける。
「は、はい……。あの、江藤さん、ページがわからないと、ひどいことを言われるんです。わたし、それを聞いていたときたまらなくて。わたしもう、そんなの嫌だったんです。またわたしはなにもできなかったって、後悔したから……だから、わたし、意気地なしだけど、せめて出来ることをって……でもかえって不快にさせてしまって、本当にごめんなさい……」
まるで、わたしが教科書を読むことの出来なかったもうひとつの未来を知っているような――山内さんが言うように「見て」来たような言い方だった。
ばかにするのもいいかげんにしてほしい。
「押しつけがましい言い方なんかして、やっぱり超能力ごっこじゃん。わたしがこうやって怒るのも計算済みで、からかって遊んでるんでしょ」
予知能力だか超能力だか、そうじゃないんだか知らないけど、どのみちそんな非常識、はいそうですか、なんて信じるわけないじゃん。つまり、本気でだまそうとしているんじゃなくて、わたしのことをからかっておもしろがってるだけなんだ、きっと。あいつと組んで。
「ち、ちがいます!」
山内さんはむきになって否定する。
「じゃあやっぱり宗教勧誘? だったら教義でまっこう勝負しなさいよ。からめ手使わないと勧誘できないような宗教にひとなんか救えるはずないじゃん」
「ほんとに宗教じゃないんです! わたし、江藤さんに嘘なんてつきません!」
「嘘をつかない? 未来を見てきた、なんてことを言ったくせに? それが超能力ごっこじゃないっていうなら、いったいなんなのよ?」
「でも、ほんとにわたし一度見ているんです。超能力ではないですけど、本当に「見た」んです。信じられないかもしれませんけど、それも嘘じゃないんです!」
山内さんは信じてくれと必死にわたしに訴えかける。その懸命な様子には、少々心をゆすられる。これがきっと演技なんだから、山内さんはかなりのくわせものだ。
わたしはそんな山内さんに冷たく言う。
「そうね。信じらんない。でも――」
超能力じゃないけど本当に見た? 言ってることがよくわからないけど、でもそんなこと、はっきりいってどうでもいい。わたしは、山内さんを理解する気なんて、少しもない。ただ、面倒なこの事態をさっさと終わらせたいだけだ。
だからわたしは続ける。
終わらせる。
「どっちでもいいよ。べつに」
「え?」
「わたしとしてはさ、もうこれ以上、山内さんにつきまとわれなければそれでいいわけ」
「あ……」
わたしがそう言ったとたん、息をつまらせる山内さん。でもわたしは気にしない。どうせこれも演技なんだから。つけいる隙をあたえない、と昼間反省したばかりだ。
「さっき、不愉快な思いをさせたことをあやまりにきたって言ったよね」
おそらくそれはただの口実だったのだろうけど、山内さんはそう言った。だったらそこを逆手にとって、この茶番を終わらせてやろうと思った。
「はい……」
「だったら、もういいよ。そのかわり、もうわたしにはかまわないで。明日からはまた、ただのクラスメート。いいよね、それで」
言葉を失っている山内さんに、答えを迫る。
「はい……」
詰め寄るわたしに押されるように、山内さんはうなづく。
よし。いちおう、納得させた。
後日、またちょっかいをかけてくる可能性はもちろんある。あの陰険で執念深い国語教師と組んでいるのならなおさらだ。でもそのときはもう徹底的に無視してやればいい。できるだけ波風立てずに学校生活を送りたいけど、避けられないものとは戦うしかない。どうせ、ひとりで戦うのには、なれている。
わたしは多少さっぱりした気持ちになって、身体を伸ばす。
が、さすがに露骨かと思ってあわてて身体をもどし山内さんをうかがうと……彼女は薄明かりしかない公園の中でもわかるほどに血の気のない顔をして、足元に視線を落としていた。呆然として、心ここにあらず、といった、本気で気落ちしているような顔……。
「……ねえ。本当にショックを受けてるわけ?」
これ以上話すことはないのに、いやむしろこれ以上話すべきじゃないのに、どうにもうしろめたくて、声をかけてしまった。
「それは……そうです」
わたしに答えているのだか、ひとりごとなのかわからない、魂の抜けたようなかすれ声が聞こえてくる。
「なんで?」
「だってわたし、江藤さんのことが好きだから」
「……え?」
「……あ」
そこではじめて自分の言葉に気がついたのか、山内さんの顔がぼっと赤くなる。耳まで赤くなり、半そでブラウスからのぞく肌理の細かい肌までもが紅潮しているのが見てとれた。
「やだ、わたしっ。ち、ちがいますよ? そ、そういう意味ではなくて、その!」
わたしが身を引いた気配を察して、山内さんはばたばたと手をふる。
そ、そうか。そういう意味じゃないのか。やぶへびだったかと思って、一瞬焦った。うちの学校は、女子の比率が高いせいか、そういう子も少なくないのだ。彼女たちがどこまで本気なのかは知らないけど。
しかしそれはそれとして、山内さんがわたしのことを気に入っているというのもまた、不思議な話だ。接点を作るための口実にしては、無理がある。
「でも、わたしと山内さん、いままでほとんど話したことなかったじゃん。っていうか、むしろ今日の昼休みがはじめてみたいなものだったでしょう? それなのにどうして」
「え? あの……江藤さん?」
山内さんが、わたしの顔をまじまじと見つめてくる。さっきの告白じみたセリフを聞いたときの動揺がまだ残っているのか、その大きな澄んだ瞳にどぎまぎしてしまう。
「な、なに?」
「いえ……」
しかしすぐに山内さんは目をそらす。目をそらしてうつむいた横顔がさみしげで、胸をつかれる。
な、なんだろ。言いたいことがあるならはっきり言って欲しいんだけど。
……いや、またあやしい話を持ち出されるのもごめんか。
「……ま、いいや。そろそろ帰ろ。あんまり遅くなると、山内さんの家族だって心配するでしょ?」
潮時だと判断して、ベンチから立ち上がる。
「そうですね……」
小さく同意して山内さんも立ち上がるけど、うつむいたままだ。
わたしなんかのことでどうしてそこまで落ち込むことができるのか、当のわたしにはさっぱりわからないのだけど、
「それじゃ、えーと、また学校で」
これ以上関わるつもりは無い。
「……はい。また学校で」
さきほどおかあさんにしたのと同じように丁寧に頭を下げて、山内さんは歩き出す。
あれ?
「駅はそっちじゃないよ?」
公園を出ると、力ない足どりながらも迷いなく駅とは反対方向に歩き出した山内さんを、あわてて呼び止める。
ふりむいた山内さんが、やっと顔をあげた。いまにも泣き出しそうな、悲しそうな笑みを浮かべていた。
「……江藤さん、やっぱり憶えてないんですね」
「え? なにが?」
なんのこと?
「わたしもこの町の住人です」
「あ、そうなんだ」
それなら、こんな時間に訪ねてくるのも納得できる。
学校まで電車で二時間近くもかかる町から通っているのなんてわたしくらいだと思っていたので、てっきり山内さんはわざわざ電車に乗って訪ねてきたのかと思い込んでしまっていた。
――なんだ。
距離のぶん、気が軽くなった。
山内さんは、べつにわたしに執着していたわけではなくて、近所だから誘いをかけるのに手ごろって考えただけなのかもしれない。
近所に住んでいるのなら、本屋で買っている本を見られることだってあるだろう。
なーんだ。それだけのことか。
「あの。わたし……」
山内さんがかろうじて聞き取れる、小さな声でさらに続ける。
「え? なに?」
気が楽になっていたわたしは、うかつにも軽く訊き返す。
山内さんは一度ためらい、それから大きく息を吸って、思い切るように言った。
「わたし、東中三年五組にいた生徒のひとりです」
――それを聞いて、すべてがつながった。
つながって、頭の中からすうっと空気が抜けて、真空状態になった。息ができなくなって、ぶるぶると身体がふるえだして――爆発した。
「……消えて。もう二度と声をかけないで。顔も見たくない」
わたしの絶縁の言葉に、今度は山内さんが息をつまらせ、蒼くなる。そのまま呼吸困難に陥って、死んでしまえばいい。
「ごめん、なさい……」
すすり泣きにも聞こえる謝罪とともに山内さんが去ってからも、しばらくわたしは公園のなかで一人立ち尽くしていた。いま少しでも動いたら、頭のなかに渦巻くどす黒い怒りがいまにも噴出して、大声で叫び出しそうだった。
(だから世界は終わらない・つづく)
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